脱オタが終わった理由

 いい時代になった説

 

少し前にこのような以下のような流れがあったことを知った。

 

 

 

 

 

 

 

 

オタクが差別されなくなり、いい時代になった。

本当にそうだろうか?

 

 

陰キャ」というより容赦のない概念の登場

 

オタクという概念は、あくまでも本人の行動や嗜好と結びつけられて語られるものだった。

気持ち悪いアニメを見ていたり、インターネットにのめり込んでいたり、ダサい格好をしていたり。

だからこそ「脱オタ」というものが一時期流行ったのだ。 

 

脱オタクファッションガイド

脱オタクファッションガイド

 

 

深夜アニメを見ず、服装に気を遣い、洒脱な音楽を聞き、スポーツに励めば「俺はオタクじゃない」と言うことができる。

被差別階級から脱出し、真っ当な人間になることができる。

そのような幻想を抱くことが許された。

実際はどうだったか?

脱オタに成功した人間が一人もいないとは言わない。この手の試みが必ず失敗するというのもまた歪んだ願望が生む過度なリアリズムだと思う。

だが極めて困難であったことは言うまでもない。

嗜好を変えるのが難しいこともあるし、そもそもオタクという語を用いた差別が建前でしかなかったからだ。

趣味がこうだから、行動がこうだから、服装がこうだから、だからお前は差別されるのだ、ということ自体が偽りだった。

多くの場合、本人には変えようのない気質・能力の欠如に基づく差別を、オタク概念で覆い隠しているに過ぎなかった。

やがて誰もが生活の一部にネットを組み込むようになり、オタク趣味が一般に浸透し始めると、真人間とオタクの差を行動や趣味で説明することが難しくなってくる。

そこで一切のベールを取り払った表現、「陰キャが誕生した。

陰の、キャラ。なんと身も蓋もない言葉だろう。

これは人そのものの属性を指す言葉だから、どうしようもない。

どの服を着ようとも、どの音楽を聞こうとも、どの趣味を断とうとも、陰キャ陰キャだ。

行動や趣味を理由にして誤魔化したりしない。ただその人がどうしようもなく持ってしまっている属性を理由に差別する。

もう誰も脱オタなどという夢は見ないし、オタクを馬鹿にする必要もない。より本質的な差別概念が発明されたから。

いい時代になったなあ。