『Q.E.D.iff -証明終了-』13巻の見事さについて語る
Q.E.D.iff -証明終了-(13) (講談社コミックス月刊マガジン)
- 作者: 加藤元浩
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2019/06/17
- メディア: コミック
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『Q.E.D. -証明終了-』とは、ざっくり言うと、(ほぼ)毎回殺人事件が起こり、天才高校生が真相を解き明かすミステリー漫画である。
その続編にあたる『Q.E.D.iff -証明終了-』13巻の2話目の表紙がこれ。
下のカットに映っている男の子が天才高校生くん。
女性の方はこれまでの話で登場していない人物。
このシリーズを読んでいる人なら、もしくはある程度ミステリー漫画を読み慣れている人なら、この表紙を見ただけで「ああ、今回はこの女の人が犯人か」と分かる。
それどころか「きっとこの女性は突出した能力を持っていて、それによって主人公でも一筋縄ではいかないトリックを展開し、大きな犯罪を引き起こした割りにさして痛い目を見ることもなく終わるのだろうな」くらいのことは分かってしまう。
この手の一話完結型ミステリー漫画は、基本的に犯人が痛い目に遭うことで終わる。それは単に逮捕されるだけではなく、自らが望んでいたものとは逆の結果が発生していたことが判明したり、何か酷く尊厳を傷つけられるような台詞をぶつけられて、すごすごと退場するところまで含む。
が、稀に例外が登場する。名探偵役である主人公に匹敵する能力がある人物。主人公でも捉えきれない人格の幅を持っている人物。こうした犯人たちは、主人公が真相に気づいた時には既に姿をくらませていたり、逮捕されても当初の目的を果たした達成感の滲む清々しい顔で退場したりする。
今回もその「例外パターン」だということが、この表紙を見ればひと目で分かる。
キャラクターの見た目。表情。『特異点の女』というタイトル。全てがそれを物語っている。
一言で言えば、このキャラクターが痛い目に遭って終わるところを想像できない。
絶対に、因果応報の枠から抜け出ることを作者から特別に許された、いつものあれに違いない。
そう思って読み始めた。
すると、やはりこの女性が今回の主犯で、有象無象の犯人たちとは一線を画する知能を持っていて、主人公も翻弄され気味だった。
真相に辿り着いた時、というかトリックが終わった時にはもう姿が消えていて、どこにもいない。
「やっぱり」以外の感想がなかった。
いつだって、こういう犯人はそのスペシャルな能力で煙のように消えて、痛い目に遭うことがない。
最後の最後で主人公だけがどこへ逃げたか勘づいて、身近な人物にそれを話して、「刑事さんに教えてあげなきゃ!」「今さら追っても手遅れですよ」的な感じで終わるんだ。
そして、多くの読者はきっとそれで満足だし、だからこそ作者もこういう造形のキャラクターにはそういう結末を許すんだ。
全然違った。
犯人が消えたのは、特別な方法で姿をくらませたからではなかった。
ここまで語ってきたような、読者が“この手のキャラ”に対し密かに抱いている感情。まさにそういった類の卑俗な感情によって、消されたのだ。
恐れ入った。
自分のような読者の存在が知覚されていたことにびっくりしたし、作者が自覚的であることにも驚いた。
犯人が消え、はいはい痛い目に遭わないパターンねと思った時、もう痛い目に遭っていた。
いいのか?と思った。自分以外の読者にとって、これはアリなのか?
多分、いいのだ。表には出さないだけで、実は皆同じようなことを思っていて、作者にはそれが分かったのだろう。
また一つ、ここに脱構築が成された。
Q.E.D.シリーズは、たまにこのようなメタレベルの高い話を差し込んでくる。
推理ものの文脈を考えるとこいつはまず犯人候補から外れるぞという奴が普通に犯人だったり、『ツポビラウスキー症候群』の話も有名だ。
それを踏まえると、もっと警戒すべきだった。
今になって表紙を見ると、あまりにもあざとい。
表紙をひと目見ただけで分かると書いたが、完全に分からせにきている。
絵も、タイトルも、ミステリー漫画の例外パターンの概念そのものを形にしたかのようではないか。
特異点(とくいてん、英: singular point、シンギュラー・ポイント)は、一般解の点ではなく特異解の点こと[1]。ある基準 (regulation)を適用できない、あるいは一般的な手順では求まらない(singular) 点である。
このような露骨な誘導をしておきながら、そのまま終わるような単純なことをこの漫画がやってくるわけがない。
後になって冷静に考えればそうだ。だが、ネカフェで時間内に急いで読もうとしている状況では分からなかったし、恐らくゆっくり読んでいてもこんな方向から引っ掛けてくるとは予想できなかっただろう。
見事だ。
スパゲッティは素人が扱うものではない
日本でスパゲッティと呼ばれる食べ物は、主にスパゲッティーニ(太さ1.6mm前後)という麺を使用したものである。
レストラン・家庭問わず、パスタといえばスパゲッティーニが使われることが多いが、それは本当にベストな選択だろうか。
思うに、我々アマチュアがたまにパスタ料理を作る分には、フェデリーニ(1.4mm前後)を使った方が圧倒的にメリットが多い。
以下、フェデリーニを使用するメリットを書いていく。
茹で時間が短い
当然である。
スパゲッティーニより細いので、茹で時間が約3分ほど短い。早く出来上がる。ガス代もかからない。
ソースと絡みやすい
当然である。
スパゲッティーニより細いので、少々混ぜる手際が悪くてもソースと絡んでくれる。
パスタに味がつかなくて困っているなら、フェデリーニを使うとマシになる。
茹で加減をミスりにくい
今回、主に言いたいのはこれだ。
フェデリーニを茹でるのは簡単。スパゲッティーニを茹でるのは難しい。
「アルデンテ」という言葉を聞いたことがあるだろう。
麺の中心部にわずかに芯が残っている茹で加減のことであり、その状態が歯ごたえがあって美味しいとされる。
ちゃんと茹だっていない状態が美味しいというのはいかにも奇妙に思えるが、それも仕方がない。
スパゲッティーニは、芯まで茹でると麺の外側が茹で過ぎになってしまうのである。
アルデンテが一定の支持を集める本当の理由は、芯が残っているからではなく、外側が丁度いい茹で加減で保たれるからだ。
芯など残っていない方が良いと主張する人も多い。麺全体を丁度いい茹で加減にできるのであれば、それがベストに違いない。
腕のいい料理人はその辺をうまくやるのだろう。軽く芯が残った状態でお湯から上げ、ソースと絡める過程で内部の柔らかさを調整し、外側の茹で加減も良い塩梅でキープする。
我々アマチュアには難しい。大抵、中が硬くなりすぎるか、外側が茹だち過ぎるか。何かの拍子に上手くいっても、なかなか再現できない。
そこでフェデリーニである。フェデリーニを使えばこの問題は全て解決する。
麺の外縁部は「全体の茹で時間」の影響をもろに受ける。
肉を焼く時と同じだ。分厚い肉を普通に焼こうとすると、中に火が通る前に表面が焦げてしまう。
フェデリーニは短い時間で芯まで茹で上がるので、麺の外側がお湯と接触している時間も短くて済む。
特に何も考えず、芯を残そうと意識しなくても、よい歯ごたえが保たれる。
そもそもなぜスパゲッティーニが主流か
ここまでフェデリーニのメリットを挙げてきたが、太い麺を使うメリットはあるのだろうか。
一般に「さっぱりとした軽めのソースには細いパスタ、濃い目のソースには太いパスタ」を使うことが推奨される。
軽めのソースに細いパスタを用いるのはもっともである。そうでなければ味が薄くなり過ぎるからだ。
しかし、濃い目のソースには必ずしも太いパスタを使う必要がない。細いパスタを使ったからといって、味が濃くなり過ぎるわけではない。味が濃いならソースの量を減らせばいい。
太いパスタを使う必要性が生じる状況はごく限られたもので、多くの場合太いパスタを使うのは、単に太いパスタが好きだからだ。
人間は、どうしようもなくスパゲッティーニ(1.6mm前後)や、スパゲッティ(1.8mm前後)の太さが、好きなのだ。
だから当然、どんな麺でも味のつく濃い目のソースなら1.6mm以上の麺を使う。好きだから。太い麺では味がつかない軽めのソースの場合は仕方なく、本当に仕方なく細い麺を使う。それが現状なのだろう。
かくも私達は「食感」を重視している。
太い麺の食感を愛している。
しかし、太い麺をしっかり茹でつつ良い食感を保つのは難しい。
ここに背反があり、そのぎりぎりの均衡点がスパゲッティーニのアルデンテなのだ。
それほどスパゲッティーニは繊細で絶妙なポジションに位置している。
少しでもミスれば食感は台無し。太い麺を選んだ意味がなくなってしまう。
フェデリーニを使えば、大きく食感が損なわれることはない。
確かに、スパゲッティーニ(1.6mm前後)とフェデリーニ(1.4mm前後)の0.2mmの差は、口に入れてみると意外なほど大きい。
スープパスタでもないのに細い麺を食べることに、最初は違和感がある。
しかし、フェデリーニに慣れたらもうスパゲッティーニには戻れない。
というのは言い過ぎかもしれないが、あまりにも楽。あまりにも簡単。
そもそも素人の家庭料理など、材料や設備、あらゆる面において妥協の塊なのだから、ここだけ妥協しないのは理に合わない。
最初から何もかもプロとは違う。
安い材料、廉価な道具、手軽な手法。
麺の太さだけプロ仕様にこだわる理由が一体どこにあるのか。
北窓、西窓のヤバさ
北向きの部屋と、西向きの部屋は、概して人気がない。
人気がない理由は検索すればすぐに出てくる。
ここでは、ざっと検索して一般的なサイトには載っていなかったデメリットについて書いていく。
北窓のヤバさ
「日当たりが悪い」と言われる北向きの部屋。
勿論それは事実なのだが、単に一年中日当たりが悪いというだけでは、その不快さ加減は伝わり切らない。
より正確に言うと、北向きの部屋は「冬は全然日が当たらないくせに、夏はそこそこ日が当たる」のである。
当然だ。
太陽の軌道は、冬ほど南寄りに、夏ほど北寄りになるのだから。
反対に、南向きの部屋は「冬はガンガンに日が差し、夏はそこまで日が差さない」のだから、人気があるのも頷ける。
当たり前といえば当たり前のことなのだが、ここまで言及しているサイトは見当たらなかった。
西窓のヤバさ
これは本当に日本で誰一人として言っていないことだと思うが、西側に窓がある部屋は虫が入ってきやすい。
なぜか?
前提として、夜間は窓に虫が寄ってきやすいことは誰でも知っているだろう。
室内の明かりが漏れ、走光性のある虫を惹きつけるからだ。
そうした走光性のある虫のうち、活動時間が日中から日没時、あるいは夕方から夜にかけて活動するもの。
こいつらは、とりわけ西側に窓がある部屋に寄り付きやすい。
あの悪名名高きシロアリの羽アリもそれに該当する。
アリは、光の方に向かって飛ぶ習性があります。イエシロアリが飛ぶ時間帯は夕方から夜になるため、部屋の電気が外に漏れていると羽アリが集まってきやすくなります。
羽アリは小さいため、窓をしっかり閉めていてもどこからか部屋の中へ入り込んでしまうこともあります。
部屋に羽アリが!シロアリの発生時間帯はいつか確認して見分けよう|生活110番辞典
ヤマトシロアリ属に走光性がないとする見解が多いが、これは明らかな間違いで、ヤマトシロアリの羽アリも太陽光に向かって飛び出す。
ただ、多くの場合電灯がともる時刻に群飛しないので、電灯に集まる可能性が少ないだけである。
しかし、なんらかの原因で夕刻に群飛したり、電灯のついた密閉された空間に群飛する場合は、ヤマトシロアリでも明確に電灯に集まる。
奴らは日が出ている間は太陽光のあるところにいる。
ならば夕方、奴らはどこにいる?
当然、建物の西側にいる。日陰となる東側には集まらない。マンションのような大きな建物であれば尚更だ。
そして、日没。
太陽光が消え、辺りが暗くなり、一番最初に奴らの目に飛び込む光は?
そう、西側の窓から漏れる明かりである。
脱オタが終わった理由
いい時代になった説
少し前にこのような以下のような流れがあったことを知った。
オタク趣味をあけっぴろげにしてバカにされたことなんて私の今までの人生で一度たりともないんだけど、オタクを理由にバカにされた人は一体どこの世界線に生きてるの??
— しぁろ (@siaro_oekaki) June 13, 2019
いい時代になったなあ https://t.co/h8eHWANwbA
— 砥神まー (@togamimaa) June 14, 2019
そっか…今の10代はそんな感じか…。いいことだ…。 https://t.co/lZlT5WglHq
— 川泉ゆうき (@yuki13kasen) June 13, 2019
やっとこういう人が出てくる時代になったんだな
— とっきー(常磐幸斗) (@tokky9long) June 14, 2019
20~30年くらい前の世界線ですね。高校生にとってはいにしえの話だと思います。 https://t.co/bQK9wHuV3E
— ハシビロ屋 (@hashibiroya) June 13, 2019
このリプに対して怒りを表明し叩くような人が驚くほど居なくて、みんな「そんな時代になってよかった」「昔はそんなこともあったんだよ」と優しく言ってる事が本当に……苦労が偲ばれて……
— 十凪高志@夏コミ不参加・・・ (@tonagitakasi) June 14, 2019
良き時代や https://t.co/Vk5SzaePpX
オタクが差別されなくなり、いい時代になった。
本当にそうだろうか?
「陰キャ」というより容赦のない概念の登場
オタクという概念は、あくまでも本人の行動や嗜好と結びつけられて語られるものだった。
気持ち悪いアニメを見ていたり、インターネットにのめり込んでいたり、ダサい格好をしていたり。
だからこそ「脱オタ」というものが一時期流行ったのだ。
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深夜アニメを見ず、服装に気を遣い、洒脱な音楽を聞き、スポーツに励めば「俺はオタクじゃない」と言うことができる。
被差別階級から脱出し、真っ当な人間になることができる。
そのような幻想を抱くことが許された。
実際はどうだったか?
脱オタに成功した人間が一人もいないとは言わない。この手の試みが必ず失敗するというのもまた歪んだ願望が生む過度なリアリズムだと思う。
だが極めて困難であったことは言うまでもない。
嗜好を変えるのが難しいこともあるし、そもそもオタクという語を用いた差別が建前でしかなかったからだ。
趣味がこうだから、行動がこうだから、服装がこうだから、だからお前は差別されるのだ、ということ自体が偽りだった。
多くの場合、本人には変えようのない気質・能力の欠如に基づく差別を、オタク概念で覆い隠しているに過ぎなかった。
やがて誰もが生活の一部にネットを組み込むようになり、オタク趣味が一般に浸透し始めると、真人間とオタクの差を行動や趣味で説明することが難しくなってくる。
そこで一切のベールを取り払った表現、「陰キャ」が誕生した。
陰の、キャラ。なんと身も蓋もない言葉だろう。
これは人そのものの属性を指す言葉だから、どうしようもない。
どの服を着ようとも、どの音楽を聞こうとも、どの趣味を断とうとも、陰キャは陰キャだ。
行動や趣味を理由にして誤魔化したりしない。ただその人がどうしようもなく持ってしまっている属性を理由に差別する。
もう誰も脱オタなどという夢は見ないし、オタクを馬鹿にする必要もない。より本質的な差別概念が発明されたから。
いい時代になったなあ。
ペペロンチーノについて「本当のこと」を教えてくれたのは葉加瀬太郎だけ
とても有名な動画だから既に見た人も多いと思う。
ただ、これまでペペロンチーノに凝ってきた人ほど真面目に受け取らず試していないのではないか。
- ニンニクは雑に切る
- 茹で汁を加えるのはフライパンに麺を入れたあと
まさか、こんなことが重要だとは思いもしないだろうから。
1.ニンニクは雑に切る
「イタリア料理のコツはニンニクを細かく刻みすぎないこと。日本人は細かく刻みすぎる」
「大雑把な方が美味しい。ホクホクしたところがあったりカリッとしたところがあったり」
「ちっちゃい破片が狐色になるぐらいがポイント」
と、動画では言っている。
なんでこんなことで美味しくなるのかは分からないが、本当に美味しくなる。
私もこれまでに色々な方法を試してきた。
ニンニクをみじん切りにしたり、みじん切りとスライスを併用したり、オイルの中で潰したり。
狐色まで火を通したり、狐色の手前で止めたり、茶色くなるまで火を通したあとオイルから取り出したり。
それらの方法でもそれなりの味にはなった。しかし、うまく言葉にできないが、ガーリック!という感じがいまいち出なかった。
ネットに転がっている様々なレシピ、動画、素人のものもプロのものも含めて参考にしたが、どれもあまり違いが出ない。
明確に差が出たのは、葉加瀬太郎のこのやり方だけ。理由は全くもって分からない。
2.茹で汁を加えるのはフライパンに麺を入れたあと
これも、なかなか信じがたいことだろう。
特に乳化原理主義者の皆様には。
「オイルに茹で汁を加えてフライパンを揺すり白濁したとろみのついた状態にする」
その辺に転がっているレシピは本当にこのパターンが多い。
確かにそうすると麺にソースがよく絡むようになる。
食べたあと皿にオイルが残らないし、油っぽさも減る。
だが、オリーブオイルやニンニクの風味が変質してしまう。
好みの問題だから "変質" と書いたが、直截に言って劣化すると思っている。
動画を見ると、オイルに直接パスタを投入してから茹で汁を加えている。
結局あとで茹で汁を加えて混ぜるのだから同じではないか?と思うだろう。
私もそう思う。
同じとしか思えない。
でも全然違う。これも理由は全く分からないけど、全然違う。
「オイルに茹で汁を加えて混ぜてからパスタを加える」のと「オイルにパスタを投入してから茹で汁を加えて混ぜる」のとでは別物になる。
実際違うのだから受け入れるしかない。
結局何が起こっているのかは分からない
理屈じゃない。なんて言うつもりはない。
何らかの理屈はある。しかし、それは到底追い切れるものではない。
乳化がどうとか、メイラード反応がどうとか、いくつかの理屈っぽいものは知っていても、料理の過程で発生する現象すべてを正確に把握することはできない。
肉の焼き方一つとっても未だに議論が絶えないくらいだ。「強火で表面を焼き固めて肉汁を閉じ込める」という私達が家庭科の授業で習ったことは正しかったのか?間違っていたのか?とりあえず実践してみて美味しい方を選ぶしかない。
今回の動画に関しても何がどう作用しているのかは全く分からないが、とにかく他の数多のレシピとは少し違うことをやっていて、そして美味しい。
ペペロンチーノのメカニズムに精通した気になっている人ほど試してみてほしい。
「なぜ人はYouTubeチャンネルメンバーシップ登録なんかするのか」
芸能人のファンクラブよりも高い価格設定
月額490円 = 年5880円
これはジャニーズのファンクラブの年会費よりも高い。
AKBファンクラブの10倍だ。
別に登録したって物凄くイイコトがあるわけじゃない。
チャット欄で自分の名前が緑色になって、チャンネル謹製の絵文字が使える。その程度のもの。
たったそれだけのために有名アーティストのファンクラブより高い年会費を払う人間がいるだろうか?
もちろん、超大手YouTuberのチャンネルとなれば入会する人も多いだろう。
なにしろ人気者だし、母数が物凄く大きい。
でも、ほとんど名の通っていない、どこの誰かも分からない素人が、ただゲームをプレイして喋っているだけのチャンネルに、芸能人のファンクラブみたいな会費を払ってメンバーになりがる人なんて、いるわけがない!
そう思うのはごく当たり前のことだ。
小規模なチャンネルにめちゃめちゃ加入者がいる現実
まず、登録者数7,500人や1.7万人のチャンネルは果たして「小規模」なのか?という話をする。
前提として、本来メンバーシップの利用資格があるのは登録者数が3万人を超えているチャンネルに限られている。
しかし、ゲームチャンネルの場合は特別に登録者数1,000人以上から利用可能となっている。
一般的なメンバーシップ利用資格要件を満たしてない登録者数3万人以下のチャンネルという意味で、ここでは「小規模」と言うことにする。
そのような小規模コミュニティにおいて、チャット欄にほぼメンバーしかいない光景というのは頻繁に目にする。
上の画像のような状況になると、もはやメンバー登録せずにコメントを打つことに引け目を感じるようになってくる。
気後れせずにコメントを打ちたいがためにメンバー登録する人もいるだろう。
では、そもそもなぜ小規模なチャンネルのチャット欄がこうもメンバーだらけの状況になるのだろうか。
とにかく自分のコメントを拾って欲しいリスナー達
一般にメンバーシップ登録する理由として挙がるのは以下のようなものだ。
- メンバー限定のスタンプを使いたい
- メンバー限定公開の動画が見たい
- 配信者を応援したい
これらがアイドルのファンクラブよりも高い金額設定が罷り通る理由になるだろうかと考えると、どうしても物足りなさを覚える。
限定公開動画の存在はそこそこ強いように思えるが、限定動画の有るチャンネルと無いチャンネルでメンバー率が極端に変わるという傾向を見出だせない以上、大きな理由とは言えない。
どこまでも人間の善性を信じるならば、「メジャーレーベルアーティストと違って規模が小さいからこそ自分が支えてあげたい」といった感じだろうか。
実際にそのような理由で登録する人も少なくないだろう。が、もう一つの隠れた理由が大きいのではないかと私は思っている。
それが「自分のコメントに反応して欲しい」というもの。
あまりライブ配信を見ない人からすると「そんなこと?」と思うかもしれない。
侮るなかれ。リスナー達のコメントを拾ってもらいたい欲求の強さは尋常ではない。
「お近付きになりたい」のとは少し違う。それはアイドルのファンクラブ会費を上回る理由にならない。ただただ「コメントに構って欲しい」のだ。その欲求がために、さして実があるとは言えない配信に何時間も張り付いたり、お金を使ったりする。それがリスナーという生き物である。
こうした空気感は小規模コミュニティのライブ配信を見れば嫌でも分かる。リスナー達はあの手この手で配信者の気を引こうとする。
自分が目立つためなら自作自演だって辞さない。
YouTube Liveでは、チャット欄にユーザー名が表示されるため、ここまで綺麗な自作自演が見られることはないが、リスナーという生き物が持つ承認欲求の強さはどこでも変わらない。
YouTubeで頻繁に目にする構ってもらうための戦略としては「配信者の私生活に踏み込んだコメントをする」というものがある。
これは本当に基本的な戦略だ。どこの小規模コミュニティへ行っても何人かは必ずこの手を使っている。
どのような手法かと言うと、例えば配信者に兄がいるという情報が出たらそれをずーっと憶えておく。そして、いつかゲームが詰まった時などに「もうお兄さんにやってもらいなよ」とコメントする。
妹がいると聞いたら「一人で〇〇のお店に入りづらい」という話になった時に「妹と行けばいいじゃんw」などとコメントする。
洗いものをサボり過ぎて使えるコップがなくなってしまうほどズボラな配信者、となれば「喉乾いた」に対し「ちゃんとコップ洗った?」。
PCのある部屋にエアコンがなく別の部屋の冷房を18度に設定してゲームしているとツイッターでつぶやいているのを見たら「暑い」に対し「ちゃんと18度にしてる?」。
本当にしょうもないと言ってしまえばそれまでなのだが、これは意外なほど効果が高い。
高確率で構ってもらえるし、ただ配信に張り付いてさえいれば誰にでも出来る。
あまりにも手軽に配信者の気を引けるため、乱用されて ”内輪ネタ" に派生することがままある。
他にも簡単に目立つための手法として「既プレイが未プレイのフリをして名探偵ぶる」というものがある。
既にそのゲームをやったことがあるのに、何も知らないフリをして「もしかして、これってダブルミーニング……?」「え?今なんであのキャラはあんなこと言ったの?」などとコメントをする。
ネタバレに近い行為なのだが、一応は初見で推察をしている体を装っているので、誰も表立って批判できない。配信者も、多くの場合は何となく察しながらも騙されてくれる。天才じゃん、と褒めてくれるし、周りもそれに乗っかってくれる。本人は気付かれていないと思っているのだから、これほど承認欲求が満たされることもないだろう。
しかし、この方法も使われすぎて、最近ではうんざりされることも多いので要注意だ。
承認欲求、有料化。
私達が普段どれほど低次元な小競り合いを繰り広げているか、充分に伝わったと思う。
さて、あの手この手で配信者の関心を引き合っているところに、メンバーシップ制度が導入されたらどうなるか。
メンバー登録した人のコメントは当然、よく拾われるようになる。
今まで「自分が一番この小さな庭で配信者からの注目を集めている」と思っていた何人かの常連にとって、これは気に入らない。早急に関心を引き戻す必要がある。登録する。
あとはもう、ドミノ倒し。一定の割合になると、メンバー登録しないままこのコミュニティに居座るのは悪いと思った人達が登録し始める。その結果が冒頭の画像の状況である。
はじめは芸能人のファンクラブより高額な会費を払って素人のチャンネルにメンバーシップ登録する人のことが不可解だった人も、ここまで読めば何となく分かったのではないか。
チャンネルメンバーシップ制度の導入は、ピラニアの群れに肉(有料)を放り込んだようなものだと。
「オタクがボケたらどうなるのか」
オタクコンテンツに「学園モノ」が多い理由、単純に中年前後からの人生メインイベントは出世/結婚/出産/育児/マイホーム/孫になるわけだけど、オタクのマス層である団塊Jrは不具合により人生のメインシナリオが進展しない人間が多く、ここら辺を描いてもオタク達には刺さり辛いからだと思うんだよな。
— rei (@rei10830349) July 26, 2019
何十回も聞いた話だと思う。
またこういう話か、と思うくらいには当たり前で、また色々な人達の共感を得ているなと思う。
逆にこういう話を聞いて驚く人達、え!!!!そんな奴らがいるのか!!!???信じられねえぜ!!!!となる人達のことは、こちら側からも見えないから、いまいちそういう人達が多数派なのだということを実感できない。
信じられるか。「学園生活」なんかにはもう興味がなくて、出世とか子育てに夢中で、戻りたいとも思っていない。そんな奴らが本当に普通? 何だかんだ人生のメインシナリオとやらを進展させている人達も、仕方なしに年相応の役割を果たしているだけではないのか。本当は戻りたいと思っているのではないのか。天童よしみの歌を思い出して共感しているのではないのか。学園モノに興味を持ってしまうのは別に行き詰まったオタクに限らない、ごくごく普通のことなのではないのか。
そうではない。本当に“根っからの大人”が沢山いるのだということは、認知症の症状を見れば分かる。
今を、自分が若かった頃と勘違いして、周囲の人や状況をその頃にあわせて解釈しようとすることがあり、たいていは、ご自身が一番輝いていた時代、たとえば会社でバリバリ仕事をしていた頃や、子育てに追われていた頃に戻ることが多いようです。
http://sodan.e-65.net/kaigo/guide/kentousiki.html
「会社でバリバリ仕事をしていた頃」や「子育てに追われていた頃」が「一番輝いていた時代」である人間が、本当に「多い」のだ。
戻りたい時代がいつまでも子供時代や学生時代のままであることは、本当に異常なのだ。
本当にそうか?
“世代の違いである”という可能性もある。というか私はそうだと思っている。「自分もいつかああなるのだ」と思っているような老人に、今の50代以下はならない。なれない。現在の認知症の主だった層は、戦争経験者であったり戦後すぐの生まれだったりする人達であって、そういう人達だからこそ見当識障害に陥っても戻るのは「会社でバリバリ仕事をしていた頃」や「子育てに追われていた頃」なのではないか。老人を敬うべきであるという考え方が建前上でも残っているのは、現在の老人が本当に敬われるべき存在だからであって、我々が老人になる頃には建前すら残っていないのではないか。
そんなことはないのかもしれない。今も根っからの大人が圧倒的に多数派で、学園生活の夢を見ているのは一部のオタクだけで、これからの老人も今の老人と同じように老人であるのかもしれない。今よりもっと素晴らしい老人になるのかもしれない。答えは何十年か後に分かるだろう。
では、そのマジョリティなのかマイノリティなのか分からないオタク達がボケた時、一体どの時代に戻るのか。「ご自身が一番輝いていた時代」はいつ? 学園モノが好きだからといって別に輝かしい学生生活を送ってきたわけではないだろう。むしろ逆だ。だから学生時代にすら戻らない。もっと昔、両親に期待されていた幼少期に戻るのか。あるいは架空の学園に入学してしまうのか。老人ホームで一つの異能力学園が形成されてしまうのか。愉快な認知症ライフに乞うご期待だ。